『知ってる? 割れた鏡を覗くと、死神に心臓を取られて死んじゃうんだよ』

久し振りに逢った高校時代の親友の言葉に、麗は正に、口から心臓が飛び出るかと思った。

「ま、まさか・・・迷信だよ、そんなの・・・ありっこない」

必死に相槌を打ちながら笑みを作ろうとしたが、一度リズムを外した彼女の鼓動は、中々治まりそうにない。

 

 

 

>>> スプランクノン -σπλαγχνον-

 

 

 

―――割れた、鏡・・・。お母さんの、コンパクト・・・・・・

親友と別れた後、考えないようにしていたことが、頭の中をグルグルと廻り始めた。
末弟の魁が、己の不注意のせいで、麗が母・深雪から貰った形見のコンパクトを割ってしまったのだ。

「お前さァ、いくら不注意だからって、母さんの形見割るかフツー!? 割らねェだろ!」

次男の翼が彼を諌めたお蔭で、魁はその後正直に謝ってくれたが、壊れたコンパクトは元には戻らない。
もちろん、割れた鏡の部分も、だ。
・・・魁の錬成術を使わない限りは。

「ごめんッ、ちぃ姉! 俺・・・今すぐ魔法で直すからッ」

魁はしきりにそう言ったが、麗は頑なに断った。

・・・錬成術とは。

一旦、物質そのものを分子レベルまで分解し、同じ分子で、様々な形の物質を再構築するものだ。
もし、そういう形でコンパクトが再構築されたとしても、一度分解した時点・・・・・・・・で、それはもう、元のコンパクトではない。
魁自身が言った科白を借りるなら、“麗のコンパクトは、あのコンパクト・・・・・・・”なのだ。

―――そして、そんな変わり果てたコンパクトを、麗は幾度となく覗いている。

長女の芳香に促されてオーディションに行った時も、その芳香の結婚式(結局はオジャンになってしまったのだが)の時も。
何度も何度も、その割れ鏡に、自分の顔を映してきた。
そんな麗にとって、“割れ鏡を覗くと死ぬ”なんて話は、まるで稲妻に全身を貫かれるような、衝撃のエピソードだった。





その日の夕刻、“あの話は、ただの迷信だ”と自分に言い聞かせても、麗は震えを止めることが出来ずにいた。

「麗ちゃん、どうしたの!? 顔真っ青だよ!?」

包丁を握る手に力が入らない。
まな板の上に思わず包丁を取り落としてしまった時、芳香が息を呑んで声を上げる。
自身の左手で右の手首を抑え付けるようにして握りながら、麗は首を振った。

「大丈夫・・・なんでもないよ」
「なんでもないワケないじゃん! 何があったの、こんなに震えて・・・
 私は麗ちゃんのお姉ちゃんなんだから、何か不安なことがあったら、」
「本当になんでもないったらッ!!!」

噛み付くように叫んで、添えられた芳香の手をやや乱暴に振り解くと、麗は調理を再開した。
妹の豹変を目の当たりにした芳香は、それ以上は何も言わなかった。
只、心配そうな眼差しで、隣で料理に没頭する麗をそわそわと見遣るのであった。





「麗、一体どうしたんだろ・・・?」
「なんか・・・怖がってるっつうか・・・でも、なんかピリピリしててさ」

長男・蒔人と魁が、麗の異変に気付き、互いに顔を見合わせる。
そう、先刻から、麗の食事が全く進んでいないのだ。
フォークを持ったまま、その手は時折震えては止まり、を繰り返している。

「私が話しかけてもね、“なんでもない”の一点張りなんだよねぇ・・・参っちゃうな、もー」

ライスを掬いながら、芳香は肩を竦めた。

「あの様子で、なんでもねェワケ無ェだろ・・・ったく、考えりゃ分かる」

翼はシチューを啜り、当たり前だと言わんばかりに、芳香にしれっと言い放つ。

「分かってるわよ、そんくらーいッ。翼ちゃんのイジワル」
「へいへい、悪ぅござんしたね、イジワルで」

芳香が食って掛かっても、平然と食事を続ける翼。
だが、その瞳の奥は、麗の心を深く探るかの如く、炯々と輝いている。
冷静沈着に・・・、尋ねるより、まず相手の様子を見て心情を見抜く・・・翼のいつもの癖だった。





まともに食事も摂らず、手早く夕食の後片付けを終えると、麗はそろそろと自室に戻った。
部屋の灯りも点けず、愛用のブルーのジャケットを脱ぎ、壁に掛けると、沈み込むようにベッドに横たわる。

―――枕元には、あのコンパクト。

いつもは普通に手に取れる筈なのに、あの話を聞いてからというもの、今日は一度もそれを開いていない。
まるで、母と接する機会を拒んでいるようで、麗は酷い罪悪感に襲われた。
けれども、そんな感情を孕んでいても、恐怖が邪魔をして、コンパクトに手を伸ばせない。

・・・この先ずうっと、このコンパクトを開くことは、もう無いんじゃないか。

息が詰まるのを感じ、麗はぎゅうっと身体を丸めた。
胸が苦しくなる。

お母さん。割れる鏡。パリン。鏡に映る割れた自分。お母さん。お母さん。もう逢えない。
割れた鏡に毀れる涙。透明な筈のそれが、ジワリと赤く染まる。
近づく死神アンクー。ローブの下で笑う、頭蓋の空洞。
嗚呼、鎌が振り下ろされる。切っ先が晄る。眼に逆光が焼き付く。
やめて。助けて。お母さん。お母さん・・・ッ。

様々な物事や思いが、麗の頭の中を駆け巡る。

頭の奥で、死神の幻影が迫る。
イヤだ、死にたくない。
死んだらもう、翼に逢えない。
翼に触れられない。
つばさ・・・つばさ・・・っ、つばさっ!



・・・・・・・・・え?



翼に? 翼を? 翼が?
なんで私は、こんなにも、翼のことばかり考えてるの?

麗は、恐怖を頭に巡らすことで、自分の中にある強い感情に気が付いてしまった。

なんて唐突に。
なんて無意識の内に。
なんて自然に。
なんと愚かしいことに。



―――――私は、自分の弟を愛しているのだ。



「そんな・・・ッ」

自身で嘆くが、否定の言葉は、彼に対する想いの強さで、ことごとく打ち消される。
一度気が付いてしまえば、もうそれを止めることなど出来はしない。





刹。

コンコン、と軽いノックの音がする。

「・・・・・・だ、誰?」

混乱の中の麗にとって、その言葉を発することが精一杯だった。
知らない内に声が震え、身体が強く硬直する。

「俺だけど」

ドアの向こう側から、今自分が思い描いていた相手の声がした。
心臓が、痛いくらいに激しい鼓動を打ち出す。

「入るぞ」

麗の返事を得ようともせず、その相手―――次男の翼が部屋に入ってきた。

「今日、外から帰ってきてから、麗姉はおかしいぜ」

淡々と言いながら、翼は麗が蹲っているベッドに近づいてくる。
麗の小さな身体が更に縮こまり、翼を拒むように、ベッドの端へと後退る。
一つ溜息を吐くと、翼は麗に背を向けて、ベッドに座り込んだ。

「ずっと震えてんぞ。何をそんなに怯えてる?
 誰かになんかされたのか? それとも、なんか言われたのか?」

なるだけ優しく問いかけてみても、麗からの返答は無い。

「黙ってちゃ分かんねェじゃねェか。頼むから、なんか言ってくれ」
「・・・・・・っ、なんでも、ない・・・ッ」

漸く、麗の口から絞り出すような一言。
だが、それは相変わらずの言葉で、翼が納得のいくようなものでは無かった。

「ンなワケあるか。なんでもないなら、こんなに震えてる筈は」

言うより先に、翼は麗の身体に手を伸ばした。
一瞬、麗は息を呑んで、その手に触れずに彼を制した。

「麗姉・・・、俺のことが怖いのか?」

彼女の様子を窺うように、そっと尋ねる。
麗は翼に背を向けたまま、ふるふると首を振った。

「ちが・・・ッ、違う、そうじゃない」
「じゃあ、なんで。怖いんじゃないなら、俺のことが嫌いか?」
「そんなわけないッ、私は・・・ッ、翼のこと、大好きだもんッ!
 誰にも負けないくらいに・・・私は翼を愛して、」

“翼のことが嫌い”、そのことを必死になって否定しようとして、感情が高ぶる。
だから、思わず、翼の方に振り向き、その目を見つめ、口を滑らせてしまったのだった。



―――愛している・・・・・と、はっきりと自分の口から言ってしまったことに、少しの間、理性が止まった。



「今、なんて言った・・・? 麗姉、俺のことが・・・好き、だって?」

驚きの目で、自分の言ったことを反芻している翼を見て、麗は猛烈な吐き気を感じた。
同時に、身体の奥から湧き上がる震えも、激しさを増す。

私は、弟を愛している。
私は、弟を愛している・・・
私は、弟を愛している・・・・・・!!!

道徳に反し、常識では認められないその罪の重さ。
血の繋がった弟を愛してしまうことが、如何に罪深きことなのか。
分かってはいたのに、何故、諦めることが出来なかった?
こんなことになってしまう前に、何故、他人を愛することが出来なかった?

―――その答えは、麗自身が一番良く解っていた。

口許を押さえて狼狽する姉の姿を見ていた翼は、そっと、優しく、麗の身体を包み込んだ。

「・・・そうだったんだ。良かった」
「・・・・・・・・・・・・え?」

ふと、本当に唐突に、翼がそう口走った。
“良かった”、と。
確かに、小さな小さな声だけれど、はっきりと、そう言ったのだ。

「俺も、麗姉のことが好きだった。ずっと、ずっと前から」

一瞬、何を言われたのかと、自分の中に浸透させるまで、少し時間が掛かった。

「自分と血の繋がった兄弟を好きになるなんて・・・自分でも、頭オカシイんじゃねェか、なんて思った。
 でも、俺は自分の気持ちに嘘なんか吐きたくねェから、ずっと誰とも付き合う気になんかなれなかったんだ。
 麗姉がホントの気持ち言ってくれた今なら、俺も正直に言うよ」

やや目を逸らし、自分の体温を麗に分け与えながら、翼はポツリ、ポツリと呟く。
そして、怪訝な表情で自分の顔を覗いている麗に視線を合わせると。



「麗姉、大好きだ。愛してる」



麗の柔らかい口唇を、翼のそれが軽く啄ばんだ。
口唇を離してもポカンとしている麗にフッ、と笑いかけると、翼は先刻よりも強く、その小さな身体を抱き締める。
麗は、いつの間にか、恐怖や狼狽といった感情が徐々に和らぎ、薄れていくのを感じていた。

「つば・・・さ・・・ッ」

漸く、小さな姉は、弟の胸に顔を埋め、安堵の涙を毀した。
まるで母親が子をあやす時のように、麗の背中をトントン、と叩くと、翼は彼女の涙を拭ってやる。





「・・・んで、何をそんなに怯えてたんだ?」

麗の震えが落ち着いたところで、翼は、部屋に入る前に抱えていた疑問を投げ掛けた。

「あの、ね? 笑わないで聞いてね?」
「あぁ、笑わない」
「ホントに?」
「ホントだって」

念を押しながら麗が言うと、翼は真剣な面持ちで頷いた。
麗は枕元のコンパクトを手に取って、それを開かずに見つめ、独り言のようなトーンで話し始める。

「今日逢って来た友達にね、こんな話を聞いたの・・・
 『割れ鏡を覗くと、死神に心臓を取られて殺される』・・・って。
 ・・・ははっ、笑っちゃうよね、ただの迷信なのに、ね」

乾いた笑いを含んで顔を上げ、翼の表情を窺うと、彼はちっとも笑ってなどいなかった。
ただ、さっきと変わらぬ真面目な顔つきで、麗の大きな瞳の奥を見つめていた。

「つ、翼?」
「なんてコト言いやがるんだ、その友達ってヤツは。ブン殴ってやりてェ」
「ちょ、ちょっと、ダメだよ、そんな。乱暴はよくないよ」
「冗談だよ。でもまぁ、悪気が無くて言ったにしても、ちょっと悪い冗談だよな、それ」

慌てる姉を往なすと、翼は再び麗を抱き締めた。

「大丈夫」

翼は優しく、麗の耳元で囁く。

「え?」
「ウルザードだろうが、インフェルシアだろうが、鏡の中から死神が来ようが、麗姉は俺が守る」

強い力を秘めた瞳で、その瞳に似合った強い声で、翼は言った。

「麗姉は、何があっても、俺が守る。守ってみせる。約束する」
「翼・・・ありがとう。私も、翼を守るね。守ってもらうばかりじゃダメだから・・・強くなる」

夜の闇に紛れながら、二人は抱き合い、誓いを立てる。
互いを守り、強くなると。

―――それを見守るかのように、大きな月から溢れる光が、窓から二人に降り注いでいる。





+++FIN+++

 

 

 

 

 

<AFTER WORD -後書->

タイトルの隣に書いてある文字は、文字化けではないですよ。
ちゃんとしたギリシャ語表記なんです。 けど、この言葉を知ってたら、よっぽどのキリスト教信者じゃないでしょうか。
かくいうワタクシは、信者ではないけれども、聖書に接する機会は人より多かったんですよ。
小・中・高の計12年間、ずーっとキリスト教の学校へ行ってたもんですから(w

それはそうと、この言葉はですね、元は「スプランクニゾマイ(σπλαγχνιζομαι)」という動詞から派生したもので、
グロい話になりますが、“犠牲獣の臓腑”を指す言葉だったそうです。
やがては人間の内臓→心情→憐れみ、という具合に、意味が発展しますが・・・
私がこの話で表したかった「スプランクノン」の意味は、「憐れみ」とはまた違うんですよ。
とある本に、「自分の気持ちを強く動かされ、相手のことを深く思いやる」と書かれてました。
これはまた別の表記で「エイデン・エスプランクニステー」というんですが、長いんでこの辺で割愛。

んで、ついにやってしまったよ、マジレンテキスト。あ〜あぁ。
迷信如きに怖がっちゃう、ちょっと可愛い麗ちん。
近親恋愛ですよ、危ないですよ、ドキドキですよ<だから腐女子帰れ
これで、漸く、黄も青も自分の気持ちに気付いた、ということになりますね。
ベッドの上でどのくらい抱き合ってたんでしょうこの二人<おい
つーか、やっぱ麗ちんは、弱いけど強い子(なにこの言葉の矛盾)にしたくて、最後のセリフが出来上がったようなモンでして。

だーかーらー、黄×青は萌えるんだってば! これは世界の定説なのですYO!
もちろんね、黄×桃も、桃×青(出た、百合発想だ)も萌えるんだけど、この二人n(検閲削除)
すいません、もうちょっと落ち着きます。
それにしても、文章が3人称視点と1人称行き来しすぎ・・・精進します・・・ふへぇ。

増えろ、同志よ!<たぶん無理ぽ

(2005/07/23)

 

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