昏い。

何処までも、黒が覆い尽くしている常闇に、少年は立っていた。
否、立っているのではなかった、何故なら、地に靴底が着いているという感触が無い。
中空に漂う、とでも、云うべきか。

彼は、おもむろに手を伸ばす。
腕は・・・動く。
指先も、柔らかく空気を掻く。
ぐっ、と拳を作ってみる・・・痺れるような心地だったが、確かに握れた。
何処かに触れられる場所は無いものか、少年の細い指が、闇を游ぐ。

脚も動かせるのか。
腿から、ゆっくりと肢をばたつかせてみる。
抵抗無く、やんわりと動かすことが出来る。

そこまで身体を動かしてみて、少年はふと思う。

僕は、胎児にでも逆戻りしたのか。
此処はまるで・・・羊水の海ではないか。
羊水に浸ってみたことはないけれど、なかなかどうして、そう思わずにはいられない。
時に烈しく、時に緩慢な水流に身を委ねる海藻のように、奔放に身体は揺れているのに、
僕は不快さを微塵も感じていないのだ。











 屍骸[かばね]は穿たれつつ、
  猶も雄弁に真を談る


       inspired with THE STAGE “Tsuki No Kodomo”










まずは感じたことを思い、次には訝るべき事柄。

此処は一体何処なのか。
何故、僕がこんな空間に存在しているのか。
今は何時だろう、でもお腹は空いてないから、それほどは経っていないのか。
ああ、学校にも行かないと・・・皆は元気にしているのかな。

この優しい空間に於いて、思案を巡らせるのは少しばかり難しすぎて、
浮かび上がり続ける疑問は、ゆるゆると闇に混じり合って、融けて、消える。

肢体を覆う空気は、人肌のように優しい暖かさを孕んでいる。
少年を傷つけまいと、小さな体躯を柔らかく包む。

暫く、心地好い暗闇の揺りかごの中でまどろんでいてもいいかもしれない。
薄らいだ意識の中で、少年がそう思った時。

出し抜けに、重力が圧し掛かった。
気を抜いていた肢に全体重がかかり、力を入れるタイミングが遅れていたのも手伝って、
倒れるのは免れたものの、少年はガクンと体勢を崩してしまう。
堪え切れず膝を附いて、反射的に吸ってしまった息を、ほう、と吐き出した。

一呼吸、二呼吸、三呼吸。

たっぷりと間を置いてから、少年は右足を踏みしめて立ち上がった。

刹。





『やあ、佐倉 悟[さくら さとる]。元気そうでなによりだ』





鼓膜に生温い吐息と、甘く囁きかける声が、同時に張り付いた。
その感覚は頚骨を伝い、ぞくり、と背筋を震わせる。
思わず驚嘆の叫びを洩らしかけたが、両の掌で己の口を押さえ、なんとか声を飲み込む。

『ははッ、ビックリさせたかな。悪いね』

微笑を含んだ小さな声が、更にぬるりと、悟、と呼ばれた少年の耳朶に纏わりつく。
身体を萎縮させつつ振り向いた悟の眼に映ったのは、信じ難いものであった。
悟は再び、急激に息を呑む。



其処に、“彼”が居た。

悟は今、パーカーを羽織った、気弱な少年の印象を模している。
対し、“彼”は、ライダーゴーグルを頭に乗せ、ボーダーのTシャツと黄色のサロペットを身に着けた、
一目見れば明朗快濶と判りきってしまう容姿をしていた。

あまりにも、そう、あまりにも似すぎていた。
双子、と呼ぶのも愚かしい程であった。



―――鏡面に映した悟を、そのまま引き摺り出した如しの少年が、其処に佇んでいたのである。



『眼が醒めたかい。いや、醒めるべきじゃなかったのかもしれないけど』

気分が弾んでいるような抑揚の中に、何処か淋しげな色を紛らせた、少年の声。
凛と響くようでもあり、耳中に籠もる感じもある。
加え、聡明さと混沌を一つにしたような、深い黒目[シュヴァルツ]が、悟の瞳の奥を捉えていた。

「君は、僕?」

果てしない闇の胎内で、悟は初めて口を利いた。
今しがた、その言葉を覚えたかのように、声は酷くたどたどしく毀れた。

悟の発した内容に、か、それともその片言じみた言葉に、か、“彼”は急にぷっ、と吹き出した。
そして、何かの箍が外れたのか、“彼”は強かに狂笑したのだ。

きゃははは、あははッ、ハッハッハッ・・・

“彼”の高らかな哄笑を耳にしながら、悟は眉を顰めた。
明らかな嫌悪の貌であった。
それが向けられているのは、毒を盛られたように笑い続ける“彼”の気狂い、にではない。
眼前のもう一人の自分たるべき少年が、己を嘲笑っていることに対して、である。
ただの一言で、ここまで嗤われる筋は無い、と悟の身体は怒張した。

『空想の中で遊びすぎた?』

一頻り笑った後、“彼”は目頭に滲む涙を拭って、悟に訊ねた。
“彼”に負の感情を抱いた悟の脳は、驚くべきスピードで回転し、
“彼”の放った諧謔を弄したかのようなその台詞が、途方も無い厭味であることを瞬時に察した。

『よりによって、のっけから喋ることがそれ?
 つまんないファンタジーの読み過ぎなんじゃないの、ベタすぎる』
「・・・・・・煩いよ、君に何が解る」
『わぁかぁるさァ!』

絞り出すように吐き捨てた悟の声に、“彼”が被さった。





『僕も、“サトル”なんだから』





“彼”が解き放った一言は、悟をまざまざと戦慄かせる。
悟の眼が見開かれたのを見止めた“彼”は、またも身体を屈し、咽喉から、ひひ、と嗄れた響きを洩らした。

「・・・どういう意味?」

猶もせせら笑う、自分と同じ“サトル”を名乗った“彼”に、心を鎮めながら悟が問う。
と、サトルの嗤いが途切れた。

『どういう意味も何も無いさ。お前は“佐倉悟”、僕もまた“サトル”。
 僕はお前の兄弟でも、クローンでもない・・・唯の“サトル”』

サトルは真っ直ぐに悟の胸を指差しつつ、口角を攣り上げる。

「でも、君は、『その続きに言うセリフはこうだ!』

悟が率直な疑問を口にしようとした瞬間、サトルの眼が満月の丸さを像る。
悟の言葉は、口腔の奥まで見通せる程に開かれたサトルのそこから飛び出す声に殺ぎ落とされた。

『“僕と同じ顔をしているじゃないか”。
 芸が無いね、お前はもう少し回る頭を持ってるかと思ったよ』
「さっきから、」

矢継ぎ早に繰り出されるサトルの猛襲に、巧みに言い返すことが出来ない悟。
募るフラストレイションは、喰い縛った歯の合間から吐き出される。

「さっきから、なんなんだ。君は僕の何を知っているんだ!
 僕の顔を真似てるくせに、僕を馬鹿にしてるみたいに笑って・・・図々しいにも程がある」

今、悟に出来る精一杯の迎撃が、サトルに向かって飛ぶ。
だが、それは、サトルの眼を始生魄にすることしか叶わない。

「いきなり現れて、僕を・・・僕のことを・・・ッ」

各々の指の間接が白く変色するほどに握り締められた悟の拳。
肩から真っ直ぐ下りた腕の先のそれがぶるぶると震えて、彼の激情を露にしていた。
出来ることなら、この拳を力の限り眼の前の“偽者”にぶつけてやりたかったが、
その後に何かが起きることが怖くて、腕を振り上げることすら儘ならぬ。

『見下されてる、って感じてる?
 厚かましいんだよ、紛い物[マガイモノ]はお前の方のクセにさぁ?』
「だッ、誰が紛い物だよッ!?」

サトルの物言いに、悟は咄嗟に言い返す。
全く動じる気配も無く、サトルはさらりと、こう突き返した。

『お前に決まってるだろう、佐倉悟。
 ううん、もうその名前で呼ぶことは相応しくないかな・・・なぁ?』

何もかも、僕はお見通しなんだ。
そう言わんばかりに、サトルは眦を引き上げて。





『それは、嘘の名前だよ・・・
 だってお前は、自分の名前と向き合っていないんだから。そうだろう?』





まるで、啓示であった。
いや、まだ啓示の方がましだったのであろうか。
其れは、啓示よりも遥かに鋭さを帯びた、雷速で繰り出された槍である。
身構える暇も与えず、言葉は悟の胸に突き立った。

悟の表情が、凍りつく。

鎧を着込んで護ってきた譎詭。
友人達の前では、自らを欺いて仮面を被り、適当な相槌と作り笑いで道化[クラウン]となった。
けれど、いつかは誰かに見破られ、触れられてしまうのではないかと畏れていた、譎詐の過去が。

当に今、身を圧し潰さんばかりの闇の中で、其れが照らし出されようとしている。



僕は、捨て子だ。

生まれ落ちた瞬間にコインロッカーに詰め込まれた、現世に必要の無い人間なのだ。
便宜上で名を与され、孤児院で育てられ、この世に12年間の生を授賦しても、
生きる目的にも、楽しさにも、真を見出せない。



友人達と戯れている穏やかな時間は、死への道程の刹那でしかないことを、
彼は齢12歳にして悟ってしまったのだ。

その、悲愴たるや、途轍もなく。
筆舌し難い重圧が、悟を押し潰す。

「そうだ、僕は・・・望まれなかった子なのかもしれない」

打ちのめされて俯くしかない悟に、再びサトルの刃が閃く。

『“かもしれない”?
 まだ言ってる。考えがヌルい、甘い、甘すぎるんだよ!
 お前を真に愛してくれた人は? お前と本当に楽しそうに遊んでくれた親友は?
 一人だって居なかっただろう・・・これが揺るがしようの無い真実、ってヤツさ。
 お前は誰からも必要とされていないんだ』

いつの間にか、顔を覆った指の合間から、燃えるように熱い雫が伝い落ちていた。
責め立てられて追い詰められ、感情が高ぶって出た庇護の泪なのか、
眼を背け続けてきた事実を再認識させられた末の安堵の泪なのかは、悟自身にも解りかねた。

『本物の“佐倉悟”は、僕なんだよ・・・マガイモノ。
 それが解ってたから、お前は“ココ”に来たんだ、ホームの下にね』

はっ、と悟は顔を上げた。

『もう、此処は何処だ、なんてベタな質問はしないだろうね。
 お前が眼醒める前のことを、よぅく思い出してみなよ。
 お前は何処に居た・・・駅のホームなんじゃないのか?』





眼の奥で、稲妻が奔ったような気がした。
唐突なる走馬灯の如し[カレイド・スコピック]フラッシュバック。





笑う晄の奥に、時折チラつく粗野な感情。
それが自分に浴びせられていて。
その上、身体中に根を張る肉腫の毒が、信じる気持ちを総て奪い去っていく。

僕は、何の為に、誰の為に、生きねばならない?
捨てられ、病魔に侵され、何故是ほどまでに意地を張って生きねばならない?
周りの皆は、いつも笑っていると云うのに?
嫌だ、厭だ、否だ・・・・・・ッ。

何も考えられない。
否、何も考えたくない・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

そうか。





だったら、










何も考えないようになればいい[・・・・・・・・・・・・・・]










仄暗いホーム、其処に薄く浮かび上がる、白磁の線。
この線を越えたら、何も考えないでいい世界[・・・・・・・・・・・]へ行ける・・・

答は、既に用意されていた。
後に必要なのは、舞台だけだったのだ。

そう思った途端に、脊を誰かに、どん、と押された気がした。
違う、誰かに押されたと思いたかっただけだ。
その、気が違ったような行為を、自身で認めたくなかった。

『悟、お前はホームに突き落とされたんじゃない。
 お前は・・・自らの意思で、“下”に毀れたんだ』

身体中の総ての力がそこに集結するほどに、悟はぐっと眼を瞑っていた。
現実、真実、解りきった未来、己の犯したこと、何もかもから眼を背けたかった。
連れて、自然に両の手がゆっくりと上がり、耳を塞ぐ。
蹲って、下腹部に力を入れる。

『常に疎外感を感じていたお前は、ホームの下という空虚に憧れを抱いていなかった?
 其処に堕ちれば、何もかも忘れられると思っていたんじゃないのかい?』
「・・・・・・ぁ、ッう、ぃ・・・あ、」

闇が一層、深く垂れ込める。
消えてしまいたいという衝動を、すっぽりと覆い隠す。
意味を成さぬ悟の呻きが、サトルに「やめろ、それ以上口にするな」と警告する。

そのやり場の無い抵抗の唸りが、咽喉から迸っていく。

「・・・・・・ぅ、ぅああアァぁぁあぁァッ!!!」

知らぬ間に、悟は疾け出していた。
纏わりつくものを払うように、腕をめちゃくちゃに振り回し、獅子の咆哮を上げながら、
悟はただ、闇を裂いて走った。
血を吐くかと思うくらいに走った。
眩暈が止まないほど走った。





どのくらい走ったのか、このまま自分はどうなるのか、解らなくなった頃。
悟は、ふと振り向いた。
何処にも・・・サトルは見当たらなくなっている。
周りは、生温い黒の世界だ。

(もう、僕を侵すものは何も無い)

そう思い、心底安心した様子で、悟が細く長い息を吐いた時。
ひゅごう、と。
剃刀のような風が、耳朶を撫で付けた。

『お前は、何も解っちゃあいない』

ビクリ、と前に向き直ると、遠ざかった筈のサトルの姿が在った。

「な、・・・ん、でッ・・・・・・」
『やっぱり、お前は眼醒めない方が良かったのかもね・・・
 自分の名前を見つめる勇気も無いんだから』

サトルの持ち上げられた口角から、濡れた歯が覗く。
が、その瞳は悲哀が混濁し、矇目[ブラインド]のように澱んでいた。

『何処に行こうと思った?
 走って逃げ出して、それで総てが終わると思った?』

サトルは小首を傾げながら、悟の顔を覘き込むように近づいてくる。
鼻と鼻が触れ合うほどの距離になった時、悟は急に肩を押され、勢いよく仰臥する。
「何するんだ」と抗いつつ、立ち上がろうとすると、顔の両隣にバン、とサトルの掌が落ちてきた。
腰の両側には、サトルの膝頭が打ち込まれる。
床(があったら、の話だが)と平行に、二人の少年は向き合う形となる。

悟は完全に、サトルからの逃げ場を失ってしまった。

「なんで、こんなこと、するんだよ・・・。
 駅のホームで、人混みに紛れたら、もう何も考えなくて済む、って・・・
 そう、思った、だけなのに・・・」

涙腺から湧いた泪が、腫れた眼球を再び潤していく。
溢れる湶は渇かず、頬を幾筋も伝い、蟀谷を濡らして髪の中へ潜る。
しゃくり上げながら出す言葉が、驚くほど震えている。

「君、は、僕・・・を、どう、したい、の、“サトル”」

サトルの矢の如し視線を避け、貌を背けて、悟は蚊の啼くような声で問うた。
それもあっさり無視を決め込まれ、サトルは続ける。

『僕を見ろ、悟。僕を識れ、悟。
 逃げるな、真実を悟れ、それがお前の名前の意味だ。
 名前と向き合え、佐倉悟!』

腹の底から声を張り上げられたのは、痛ましいほどのサトルの願いだった。

『“現実”では、お前が“本物”の悟なんだ。
 本当のことを見据えていなくても、僕がこの世界に居る限り、“本物”はお前だ』
「じゃあ、」

目線を上に戻し、哀しく濁る眼を睨めつける悟。

「シンジツ・・・っていうのは、一体何所に、どれほどあるモノなの?
 何が本当のことで、何が嘘で・・・真実って、何が、どれが?」

ずっと知りたかったのは、それなのだ。
短く、だが殊更永きに感じた12年、幼いながらも見つめようとしてきたものの果てに垣間見たのは、
どうしようもなく希望が失われた未来で。
それを識った途端に、様々なことに目を向けるのが怖くなっていた悟。

『僕にも解らない』

悟に向かい合ったサトルは、屈託無く笑って、そう零した。

『お前が解らないこと、僕に解るわけないじゃないか。
 何度言えばいい、僕はお前自身じゃあないんだよ?』

目は薄く微笑んでいたが、その声は雹のように突き刺さってくる。
明らかな敵意を以って、サトルは悟に容赦の無い言葉を振り翳す。

『そこいらに転がってる、下手な三文小説じゃあないんだ。
 いくら僕がお前自身を模ってたとしても、心まで同じなわけがないだろ?』

天使の微笑が、くるりと変わる。
隠微に上がる口角は、悟のものなどではない。
この少年は、こんな卑しい表情を知る由もない・・・今までにしたことがないのだから。

『人の心まで読めたら、そいつはよっぽど偏屈な心理学者か、何かに憑かれてるヤツさ。
 ていうか、そんなことを説明する為に、僕はお前に逢いに来たんじゃない』

そう言うと、先程までのサトルの表情が嘘のように消え失せた。

『もう一度だけ言う。
 逃げるな、眼を、逸らすな。
 お前はまだ、“僕”を殺すべきじゃない』

ひゅっ、と、空気が吸い込まれる。
霹靂が、胸を劈いだ。
頭の中に、白い光が炸裂する。

咄、悟の身体が、ぐいと引き寄せられた。
何が起こっているのか、一瞬掴みかねたが、柔らかな温度に包まれていることが解り、
サトルに抱き締められていると識る。

“僕はただのサトル”、“僕はお前自身じゃあない”。
サトルは頻りにそう言っていたが、それこそが嘘だと、悟は気付いた。
サトルという人物が、悟自身が想い描いた、彼の在るべき姿なのだ、と。

しかし、“悟”は、体躯からだらりと力を抜いたまま、こう返した。



「僕の名前、君にあげるよ。それでいいだろう?」



なんと、淡々とした。
もう、どうなってもいい、そんな想いが滲んでいて。
言葉は泪と共に、儚く、酷い弱々しさで流れ落ちる。

身体が、僅かに離れた。
躊躇いながら、悟はサトルの貌を穿った。

初めて、サトルの眼に、戸惑いの彩が滲んだ。
口唇が震えるように幽、と動き、何かを紡ぐ。
けれども、そこから声が発せられることは無かった。

[ いけない、それは・・・・・・・・・ダメだ ]

サトルの声が聞こえなくなっているのは、彼の身体が、黒に融け始めたからであった。
それに気付いた時には、悟は“サトル”の頬に触れ、呻いていた。

「サトル・・・厭だッ! 行かないでッ・・・!
 僕の替わりに“現実”を生きてよ! “真実”を見つけてよ!
 僕には無理だ、僕は君のように強くは無いのに・・・!!!」

悲痛なほどに、咽喉が裂けるかと紛うほどに、悟は吼える。
呼び止め、引き止め、己の弱さを露見してくれたもう一人の自分を、自身に取り戻す為に。
いよいよ、更にサトルの暖かさが褪めていく。

[ 僕がお前の替わりになっても意味が無い。
 お前が自分自身で“真実”を悟るんだ、それがお前の義務だ ]

「厭だ、行くなあぁっ!!!」

願いは、届かない。
哀しい劣情を秘めしサトルの黎い瞳が、緩やかに煌めきを帯びた。

[ 心を鎖すな。お前の手で、未来を開け。定を掴め。
 皆が両の腕を開いて、それを待っているんだ。
 それに・・・お前もそれを望んでいた。
 本音を曝け出すことを怖れたが為に、お前は誰からも愛されなかったんだろう?
 お前は賢い・・・なのに、それを悟るのが怖かった? ]





『引き返せ。佐倉、悟』





サトルの最後の言の葉は、今まで交わしたどれよりも、はっきりと、耳に残る。
困惑を顔中に拡がらせたサトルの笑みが、迫り、落ちる。
どん、という、臓腑や血液を諸共揺さぶる衝撃が、落雷の如く、悟を撃ち抜く。
融けたサトルの身体を、そのまま受け入れたような感覚だった。

―――それとほぼ同時に、悟は、音を、聴いた。











 ごお。










これから先、少年・悟は、大気が激しく揺れて残響する音を、ずっと忘れないであろう。
並んだ二つの月の淡光が、猛烈な勢いでこちらに向かってくる。
晄は輝きを増し、直射する太陽と見紛うほどに、悟の眼窩を貫いた。

このまま、僕はあの晄に呑まれていくんだ。
総ては、それで、それだけで、終わる。

ふと、悟の胸中に、そんな言葉が浮かぶ。
全身が恐怖に覆われている筈なのに、心は何故か、凪のように穏やかになりつつあった。

・・・・・・ァァァアアア・・・ン。

俄かに、警告が反響する。
誰かの叫び声が、けたたましいほどに、幾つも幾つも聞こえてくる。

だが、悟は浮かされたように動けなかった。
半ば恍惚とした貌で、迫る月の晄を茫、と見つめるのみであった。










『引き返せ。』










梦か現か、悟は声を聴く。

そして、終ぞ感じたことの無い、撃力を。
その身に受けることとなる。





   どん。  





躰が宙に舞うのが解る。
腕の関節が、あり得ない方向に曲がっていることも。
肢が離れて、何処かへ飛んでいくことも。
こきり、と輕い音を立てて、頚骨が拉げたことも。
何故か明確に理解できる。

悲鳴が、所々から聞こえるが、そんなことはどうでもよかった。
悟は今、不可思議な感覚に見舞われていた。

―――自分と、サトルの身体が交錯した時に感じた、あの重く籠もった鈍いインパクト。

月の晄が自身を轢いていく感触は、それと酷似していたのだ。

『噫、悟、お前は、』



たたん、たたん・・・ たたん、たたん・・・



木と金属がぶつかり合うリズミカルな調子に、サトルの熱を含んだ囁きが掻き消されていく。










やがて、少年・悟は、もう一人の自分に出逢う夢幻[ゆめ]を視る。










+++了+++




















<AFTER WORD -後書->

人生とは何か。
何の意味を持って生きるのか。
絶望しない為に、如何に足掻いて生きるのか。
穏やかで、悔いの無い最期を迎える為に、人は何を遺すのか。

よくある問答です。
そしてまた、その応えも在り来たりです。
所詮、人とは解りきった路しか歩めないものなのです。
人と何か違うことを求めると、それは"個性"となり、やがて"稀有"、"奇特"へと成長し、
「あいつは皆とは違う」なんて言われて、村八分にされることが常です。

それでも、やはり人は、"自分がこの世を生きていた"という証を、
足掻いて、人にインパクトを与えることをして、何らかの形で後の世に刻み付けたいのだと思います。
舞台「月の子イ共」の主人公・佐倉悟は、それが出来なくて、心の闇を彷徨っていたのだと考えます。

今回の小噺のスタートラインは、現世で生きる私達と酷く近接している問題になっています。
(こんなこと言ってますけど、私は「月の子イ共」の本編を一度も見ていません<オイ)
エラく真面目な語り出しになってしまいましたが、まずは謝罪を。

ほんま遅筆ですんまそん!!!<待てこら

最初は「月の子イ共始まるまで」、次は「月の子イ共の上演中には」、最後は「千秋楽まで」とか言っといて、
シメの展開で矛盾が生じ(修正して上げた↑の小噺も辻褄合わないとこいっぱい orz)、
ぜんっぜんUPできないでやんの、なにしてんの私・・・
ラストシーン、『引き返せ。』の後は、もうちょっと展開があったのですが、歯切れ悪くなったので切りました(w

まぁド阿呆の言い訳はさておいて(棚上げ!?)

「月の子イ共」は、佐倉悟という孤独な少年の心を移ろう話だとお聞きしました。
展開は程よくスピーディで面白さは感じるものの、劇中で言いたいことを詰め込みすぎて、
真意を掴みづらかった、という手厳しいご意見もチラホラとあるようです。

そこで、私の妄想の登場ですよ!<要らない

冗談は置いといて、自分なりの砕いた解釈を要約したものが、この小噺と思って頂ければ・・・
そして、こんな拙いものを読んで下さった方に、少しでもこの舞台の記憶を刻みつけることができれば・・・

ってゆーか、あれですよ、この舞台ね、DVD出るんだって!
めっちゃテンション上がるってほんまに!
特典映像てんこ盛りで、春に発売だそうです、皆買おうぜえ!<結局それ

最後に一言。
↑の小噺のラストを、悟は“サトル”の願いを遂げることを恐れ、
“迫る月の晄”に轢かれて短い生涯を終わるというバッドエンディングにしてしまいましたが、
これを読んで下さった皆さんの未来は、行く先をいつまでも見つめられる明るさであり続けますように・・・



>>> Reference Musix (小噺を書くにあたって参考にさせて頂いた音楽群)

01) ブルートレイン / AGIAN KUNG-FU GENERATION
02) sneak chamber / FORCE OF NATURE
03) Concertino Blue / Hirofumi Sasaki
04) サヨナラ・ヘブン / 猫叉Master *Recommend!*
05) Little prayer / 土岐麻子
06) Apocalypse 〜dirge of swan〜 / Zektbach
07) ミラージュ・レジデンス / Jimmy Weckl *Recommend!*
08) Ring / Kozo Nakamura
09) ancient breeze / 小野秀幸
10) 夢と現実 / P-4 laboratory

多すぎる(w<さらにほぼギタドラ曲
私はいつも、いろんな音楽を聴きつつ小噺を書くのですが、こんだけ聴いたのは初めてです。

冒頭では"ancient breeze"で緩やか且つ周りの見えない不安感を煽り、
唐突にサトルが現れるシーンは"Ring"で、雰囲気の入れ替えを行い、
サトルの正体が判る一幕では"Apocalypse"・"夢と現実"、
悟とサトルの問答場面は"sneak chamber"のような切羽詰まったもので盛り上げ、
地面に拘束されて囁かれるところでは"Concertino Blue"・"ミラージュ・レジデンス"、
ラスト、悟とサトルが一つに交錯するシーンは"サヨナラ・ヘブン"・"Little Prayer"を交え、
悟の中の蟠りが昇華されていくのをイメージしました。

駅のホームが舞台となっているので、BGMは"ブルートレイン"がメインになっています。

自己満のこだわりっぷりを、胸焼けがするまで感じてください(苦笑)

(ちなみに、"サヨナラ・ヘブン"・"ミラージュ・レジデンス"は特にオススメです。
 機会があれば是非とも聴いてみてください)

(2007/02/21)

 

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